2014年1月24日金曜日

靖国参拝を巡る日米の差

日米の行動に対する判断基準には大きな差がある
ように思える。

例えば、靖国参拝問題。

日本人は、命を賭して祖国を守ってくれた英霊に
尊崇の念を捧げるのは正しいことなのだから、
首相が参拝するのは当然と判断する。

だが、米国人は違う。

英霊に尊崇の念を持つことは確かに正しいことだが、
靖国参拝をすれば、近隣諸国との間で大きな軋轢が
生まれるのであれば、今それは控えるべきだと考える。


日本人は、正しいことであれば、やるべきだと考える。

だが、米国人は、正しいことでも危険があれば、控え
時期や情勢が変化するまで待つべきだ、あるいは、
それができる環境を整えるべきだ、と考える。


このように、日米では行動に対する判断基準が
大きく異なっているように思えるのだ。

先般、安倍首相が靖国神社を参拝した折、
米国は「失望した」と述べたのはそうした彼らの
判断基準によるものではないか。


ここでたとえ話をしよう。

あなたの大親友が雪山で遭難し、亡くなったとしよう。

あなたは翌年、その人の命日に雪山に登り、
慰霊しようとするかもしれない。

なぜなら、慰霊することは正しいことだからだ。

しかし、雪崩の危険性がわずかだがあるとしたら、
どうだろう。

雪崩の危険性がわずかなら行く、という日本人は
少なくないかもしれない。

なにしろ、大親友の命日なのだから。


だが米国人は、こう考える。

確かに命日に大親友を慰霊することは正しい。

しかし、雪崩の危険があるときにはいくべきではない。

命日にこだわらず、雪崩の危険性がゼロに近い時を
待って慰霊すべきだ、と。

日本人にとって正義が最も重要な判断基準だが、
米国人にとっては、正義だけでは行動しない。

あなたは、日米どちらの行動に対する判断基準が
正しいと思うだろうか?

今から70年ほど前、日本人は様々な事情があったにせよ、
自分たちは間違っていないと考え、米国との開戦に
踏み切った。

だが、もし米国人が当時の日本ほどの国力しかないと
仮定した場合、大国との開戦に踏み切っただろうか?

たぶん、自分たちの正義はとりあえず横に置いて、
戦争回避に動いたのではないだろうか。